ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 市長の部屋 > 市長室からこんにちは(平成27年12月号)

市長室からこんにちは(平成27年12月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年12月1日更新
 師走の風物詩の一つが忠臣蔵です。吉良邸討ち入りの12月14日が近づくと、テレビ、ラジオなどで盛んに話題に上ります。この忠臣蔵と益田市、いささか接点があります。
 戦国乱世終息のざっと百年後、18世紀初頭に赤穂事件は起きました。発端は、赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城内で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけ、即日切腹になったことです。主君の無念を晴らそうと、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら旧家臣47人が結束して吉良家の寝込みを襲い、首尾よく仇を討ったのです。天下泰平を揺るがす一大事件に、幕府内はその評価と処分を巡って激論となりますが、結局、徒党を組んでの押し込みと結論付けつつ、武士の名誉を保つ切腹としました。
 ところが、討ち入った浪士全員が切腹したわけではありません。というのは、仇討を遂げた一行は、本所深川の吉良邸から亡き主君の眠る高輪の泉岳寺までの約12キロ、夜明けの江戸市中を練り歩きますが、寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)という人物がその途中、姿を消しているのです。
 離脱の理由について、最後の段になって逃亡したとするもの、足軽という低い身分だったので仲間から外されたとするもの、何らかの密命を帯びて別行動したとするものなど諸説あり、またその密命の内容についても、主君の親族への報告、後世への伝承、あるいは他の浪士の供養など様々に推測されています。赤穂浪士が武士の鑑と称賛される中、世間の目を避けるように諸国を遍歴して余生を送ったとされています。
 その寺坂が石見にも数年滞在し、遠田の地に信行庵(しんぎょうあん)という庵を結んで同志の冥福を祈っていたこと、そしてその信行庵には現在大きな自然石の墓が立っており、坊守さんが毎日欠かさず花を供えておられることが、郷土史家・伊藤義照氏の著書『石見の寺坂』に記されています。
 「さくときは花の数にも入らねども散るには同じ山桜かな」討ち入りから44年後、死より過酷な生を全うした「最後の赤穂浪士」が83歳でこの世を去るとき残した歌です。そこに託した思いは、この地で今も守り継がれているのです。