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市長室からこんにちは(平成28年6月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年5月26日更新

 益田市多田町にある扇原関門跡は、かつての津和野藩と浜田藩の境であり、江戸末期の慶応2(1866)年旧暦6月16日、つまり今から150年前に石州口の戦いの火ぶたが切られた場所です。歴史作家司馬遼太郎の言葉を借りれば、「近代日本の夜明け」を記す史跡といえます。


 現在、扇原を訪れるには町の南外れから続く坂を上り、そして途中の脇道を左に入ります。しばらく進むと、小さなトンネルがあり、これをくぐると、いつの間にか一面に木が茂り、昼なお暗い山道へと変わります。文明の発する物音も絶え、現代から幕末に時間旅行したかと錯覚する瞬間です。薄暗い静寂の中、ゆっくり歩を進めると、やがて峠に至り、藩境の石碑が木漏れ日に照らされています。

 石州口の戦いは、幕府に四方を包囲された長州藩が徹底抗戦した四境戦争(幕府側の呼称は第二次長州征討)の一つです。緒戦から攻勢を取り東進する長州藩に対し、津和野藩が早々に中立を決め、領内通過を黙認したことから、扇原が最初の戦場になったのです。


 攻め入る長州軍数百名は兵学の鬼才大村益次郎に率いられ、最新のライフル銃を装備。迎える浜田藩の関守は数え歳31の岸静江国治。自身は宝蔵院流の槍の名手ながら、配下の二十数名が手にするのは旧式の火縄銃。彼我の差を見て必敗を悟った岸は兵卒をみな退去させ、たった一人で応戦することとしました。しかしついに被弾し、十字の槍を片手に床几に腰掛けたまま(一説には仁王立ちで)絶命したと伝えられます。その義勇に感銘を受けた大村は手厚く葬るよう命じました。


 四境戦争は幕府滅亡への転換点でした。その後も戦勝を重ねた大村は維新の立役者となりますが、急速な近代化を嫌う不平士族により、志半ばで暗殺されます。日本陸軍の祖である大村の銅像が靖国神社に立てられましたが、そこには岸もまた昭和8年に合祀されています。時の巡り合わせで、攻め手と守り手、勝者と敗者に分かれた両雄は今や同じく護国の神として祀られているのです。