ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 市長の部屋 > 市長室からこんにちは(平成28年7月号)

市長室からこんにちは(平成28年7月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年6月22日更新

 明治の軍人・政治家の児玉源太郎は、日本史上有数の傑物です。最大の功績は、未曾有の国難であった日露戦争において薄氷の勝利をもたらしたことです。

 日露の情勢、風雲急を告げた明治36年夏、児玉は戦争の準備・計画の実務責任者である参謀本部次長に就任しました。台湾総督と内務大臣を兼任していた児玉にとって降格に等しい人事でしたが、この難局に当たり得る人材は他にいなかったのです。

 児玉の準備は迅速かつ周到でした。状況を危ぶむ財界を説得し戦費調達の協力を取り付け、また日本と大陸の間に情報通信用の海底ケーブルを敷設し、さらにヨーロッパに駐在する明石元二郎大佐にロシアを内部および背後から揺さぶる秘密工作を命じ、多額の資金を与えました。

 その翌年ついに戦端が開かれると、現地の満州軍総司令部の総参謀長となり、全軍の作戦展開を一手に担いました。劣勢の中、苦戦を重ねますが、最大かつ最後の陸上決戦であった奉天会戦に辛くも勝利を収めました。戦勝に沸く政府では追撃を期待する声が高まりました。しかし、兵力も弾薬も資金も限界に来たことを誰よりも熟知していた児玉は、急きょ前線を離れて帰京し、終戦に向けた交渉を始める方針に転換させました。

 戦争の準備、采配、終結のすべてを主導した児玉の貢献は絶大でした。しかし、凱旋の10カ月後の明治39(1906)年7月23日、脳出血で急死しました。まだ54歳、これからさらに本領発揮と期待された矢先でした。危急存亡の祖国を救った天才は、荒野において日々その頭脳だけでなく肉体をも酷使していたのです。

 百十年後の今、周南市の児玉神社には、台湾の李登輝元総統の筆による「浩氣長存」の字が彫られた石碑があります。これを仰げば、天地の間の活気がそこに集まり、そして、そこから発するような感慨を覚えます。
 

**********************************
 間もなく一期目の任期満了を迎えるため、次回の本欄は休載となります。
 この一応の区切りにあたり、これまでのご愛読に対する感謝の意を表します。
**********************************