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市長室からこんにちは(平成28年11月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年10月24日更新

 発生から5年以上になる東日本大震災。いまだ道半ばの復興を思うとき、浮かぶ人物の一人が、関東大震災後に壮大な構想を打ち上げた後藤新平です。

 幕末の仙台藩水沢城下(現在の岩手県奥州市水沢区)に生まれた後藤は、遠縁にあたる高野長英が幕府批判のかどで弾圧されたことや、藩が戊辰戦争に敗れ朝敵とされたことで、青年期以前は不遇を極めました。しかし苦学の末に医師となるや、抜群の頭脳と度胸でたちまち頭角を現し、24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部の前身)の校長兼病院長、35歳で内務省衛生局(現在の厚生労働省に相当)の局長へと昇進しました。

 さらなる転機は、台湾総督となった児玉源太郎により42歳にして民生局長に抜擢されたことです。しばしば政府や軍の要職も兼務した児玉は、実務を後藤に一任し、敏腕を存分に振るわせました。当時の台湾の深刻な社会問題は阿片吸引の悪習でした。仮に即時禁止すれば、暴動が起きるなど大混乱を招く恐れがあったため、厳重な管理によって徐々に常習者を減らす方針を採り、根絶への道を開きました。

 その後も主要閣僚に加え、南満州鉄道株式会社、内閣鉄道院(現在のJRおよび国土交通省の一部)、社団法人東京放送局(NHKの前身)などの初代総裁や東京市長を歴任しました。

 関東大震災発生の翌日成立した第2次山本権兵衛内閣では内務大臣となり、帝都復興院の設立を主導し、その初代総裁を兼ねました。当初は国家予算の倍に当たる30億円規模の抜本的な構想を提唱しましたが、野党や世論の猛反対に遭い、計画縮小を余儀なくされ、しかも実施段階でさらに骨抜きにされました。

 後藤の復興計画はその時点では大風呂敷に終わりました。しかし、描いたビジョンはその後の区画整理事業などにおいて昭和通りなど幅員の広い幹線道路や公園、下水道の整備に活かされ、世界都市・東京を支える社会基盤として結実したのです。

 今回、第五十号を迎えるにあたり、登場人物に後藤を選びました。