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市長室からこんにちは(平成29年5月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年4月26日更新

 全国市長会の会議が開かれる東京平河町の全国都市会館から赤坂方面への抜け道を行くと、清水谷公園という公園があります。都会の真ん中にあるとは思えぬほど静かなこの公園の一角に「大久保利通公哀悼碑」が立っています。私が最も尊敬する維新の元勲・大久保利通が暗殺されたのがこの付近なのです。


 薩摩藩の下級士族であった大久保は、20歳の年お家騒動の余波で職を解かれ極貧の青年期を過ごします。やがて実力者の島津久光に接近し、側近そして重役へと異例の昇進を遂げました。幕末には西郷隆盛と手を携えて藩政を取り仕切り、明治維新を成就させます。維新後も常に新政府の中枢を担い、次々と重要な改革を推進しました。西郷失脚後は、参議・初代内務卿として半ば独裁的な体制の下、殖産興業、つまり産業振興に剛腕を振るいました。なお、この政策が真価を発揮するのは明治期よりも、むしろ第二次世界大戦後で、加工貿易を中心とした外需主導の高度経済成長は大久保の構想の延長にほかなりません。


 大久保のもう一つの遺産は8千円(現在の貨幣価値で2億円余りに相当)の借金でした。国の歳入不足を人知れず私財で補っていた結果です。蓄財に励む政府高官が珍しくなかった中、際立った清廉さといえます。

 
 生前、大久保が登庁する際その靴音が廊下に響くと職員は一斉に私語を止め、また日中も庁舎内の緊張の度合で大久保が執務中かどうか判別できたといいます。私利私欲なく目指す方向にひたすら突き進む姿勢は、稀有な威厳とあいまって、西郷とは好対照の近寄りがたさを醸していたのでしょう。正確な見通しに基づく政策判断と苦境の連続の中で培った強靭な精神力によって、発足間もない新政府を牽引し、近代日本の成長路線までも確立した功績は絶大です。


 それがあろうことか、私腹を肥やす圧政者と曲解され不平士族の凶刃に倒れたのは、数え年49歳となる明治11年のこと。その5月14日という日付は、奇遇ながら私の誕生日の1日後です。