柿本人麿とは

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月24日更新

 

特集コンテンツ 柿本人麿 人麿と益田 戸田で生まれ育った少年期

戸田柿本神社の写真  戸田柿本神社

遺髪塚の写真
遺髪塚
 のどかな田園の続く益田市郊外の戸田。
人麿出生の地といわれるこの里には戸田柿本神社があり、 代々語部(文字のない時代に、歴史や物語を口伝する職務にあった人)を務めた綾部家が今も神社を守っています。
かつて大和に住み、柿本氏に仕えていた綾部氏は柿本氏の士族が 石見に下った時、これに従ってこの戸田に移住、 後年柿本氏と綾部氏の娘との間に生まれたのが人麿で あると伝えられています。
 綾部氏は代々巫女が世襲したといわれ、 巫女は神事に奉仕すると共に神事を語り伝える女性の職分であったようで、人麿はこの巫女を母とした豊富な 情報力を蓄積した文化的な家庭で教導一途な少年期を 過ごしたといわれています。
 また、綾部家の脇には、人麿の遺髪をまつった 遺髪塚があります。

宮廷歌人として和歌の道を極める

万葉公園の写真
万葉ロマン溢れる
「万葉公園」
 青年期になると、大和の柿本族の祖地を訪れ、 天武、持統、文武の三代の天皇の宮廷歌人となりました。
この頃は壬申の乱(672)年の波乱もおさまり 律令国家の体制も確立された時代で、人麿は四季が織りなす大自然に 触れては雄大で感動に満ちた格調の高い賛歌を作りました。
そして、天皇や皇子の旅に供奉しては、行幸先の土地を賛美し、 天皇の徳をたたえました。
 「万葉集」に収められた人麿の歌は長歌16首、 短歌66種にものぼります。

石見のや高角山の木の際よりわが振る袖を妹見つらむか

三里ヶ浜の写真 石見の海「三里ヶ浜」 この歌は石見の国より妻に別れて 大和によった時に作った歌です。
人麿は702年以後、石見の国府の役人として 赴任しています。
都において2人の妻に死に別れた人麿はこの地で 依羅娘子を娶り貢調使として上京する時、 娘子としばし別れを惜しんだ切々とした愛の歌として 有名です。

終焉の地鴨島と高津神社

高津柿本神社鴨島跡展望地の写真
高津柿本神社鴨島跡展望地
 大宝元年(701)以降には、石見国府に赴任し、 鴨島の地で71歳の生涯を送ったといわれています。
「鴨山の盤根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」 の挽歌を残しています。
 また、鴨島は、伝承によるとかつて益田川河口の沖に 鴨島があり、そこに人麿をまつる社があったとされていますが、 万寿(1026)年の地震で鴨島は押し寄せた大津波で 水没したといわれています。
近年、当時の地震や津波の痕跡が科学的に調査され、 話題を呼びました。
人麿をまつった高津柿本神社はその後、 高津・松崎に新たに建立され、 江戸時代になって現在の地に移転されました。
毎年9月1日には「八朔祭」(はっさくさい)が催され、 おおぜいの人でにぎわいます。

益田の人々から「人丸さん」と敬愛をこめて  

益田の人々は人麿のことを「人丸さん」(ひとまるさん)と 呼んでいます。
益田の戸田で生誕し、高津で終焉の地を迎えた人麿に人々は 敬愛をこめて「人丸さん」と呼ばれるようになったと いわれています。
万葉集に収録されている島根を読んだ人麿の作をみると、 いかに人麿が石見を心の故郷としていたかがうかがわれます。
 


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