益田氏城館跡「三宅御土居」 - 益田市ホームページ

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年1月1日更新

益田氏

益田氏城館跡「三宅御土居」

 益田氏の館であった三宅御土居は、南北朝時代に11代兼見によって築造されたといわれています。七尾城から益田川を隔てた対岸にきずかれたのは、農業用水と、益田川を利用して益田本郷地域へ供給される物資の流通を管理するためと考えられています。
 戦国時代末期、毛利氏との対立から19代藤兼が一時本拠を七尾城に移しましたが、毛利氏との和睦に伴い20代元祥が三宅御土居を大改修して下城し、再び本拠としました。関ヶ原の戦いの後、元祥が長門国須佐に移ると廃絶し、江戸時代のはじめに益田氏の家臣がその場所に泉光寺を創建しました。
 現在は、三宅御土居跡のほぼ中央に寺院が建ち、東西には高さ5mにおよぶ大規模な土塁が残っています。明治10年頃の上本郷村地図や昭和22年の米軍の空中写真を参考にすると、全体の形が現在もよく残っていることがわかり、館の周囲には堀があったと推定されていました。

三宅御土居跡空中写真
三宅御土居跡空中写真

三宅御土居想像図
三宅御土居想像図
 (1) 西土塁
 長さ約50m、高さ約4.5mの土塁
西土塁
(2) 東土塁
 長さ約90m、高さ約5mの土塁
東土塁
明治10年頃の美濃郡上本郷村地図第4号
明治10年頃の美濃郡上本郷村地図第4号
昭和22年米極東空軍撮影空中写真
昭和22年米極東空軍撮影空中写真
  

三宅御土居の配置

 長さ90m高さ5mの東土塁と、長さ50m高さ4.5mの西土塁とに挟まれた範囲に建物があり、その周囲を堀が囲んでいました。
 当時一町(約100m)四方が一般的な規模であった中で、南北が一町、東西が二町の全国的にみても大規模な御土居です。東土塁に比べて西土塁の長さが短く、上空からみると長靴状の形をしています。通常、館は正方形か長方形の整った形をしており、全国的にも珍しい形です。以前は、長方形の館であったものが近年の開発によって削られたと考えられていましたが、調査によって最終段階の平面形は長靴形であったことがわかってきました。現在御土居の中央を南北に走る道路の西側は主に御殿や庭園など私的空間として使用されていたようです。
 また、東側は政治を執り行なう邑政堂を中心に、武器の製造・補修の鍛冶場、米倉など公的空間として使用していたことが、確認されつつあります。御土居の北側に残る「土井後」という字名から三宅御土居の正面は七尾城側と考えられ、これを示すように泉光寺の南側に残る周囲よりもせり出た地形が虎口(出入口)跡と考えられます。

 益田氏御殿略図写
益田氏御殿略図写

保護された三宅御土居

 益田氏が須佐に移った後、400年間にわたった益田氏の地域支配の終わりとともに、三宅御土居はその機能を失いました。
 その後御土居跡には、益田氏の家臣により泉光寺が建てられました。このおかげで、今日まで開発を受けることなく遺跡は守られてきました。
 三宅御土居跡の周辺には民家が建ち並び、昔を想像することは難しくなりましたが、当時の名残である東西の大規模な土塁をはじめ、次第に明らかになる発掘調査結果などから当時の壮大さが偲ばれます。


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