益田家文書

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月24日更新

特集コンテンツ 藤原鎌足を始祖とした山陰の名族 益田氏

 

歴史の証言者・益田家文書

 中世益田を象徴するものとして七尾城、三宅御土居と並び称されるのが、東京大学史料編纂所に所蔵されている「益田家文書」。同編纂所でこの文書の刊行を担当されている久留島典子教授に、その意義などを紹介していただきます。

益田家文書とは

 益田家文書は石見の豪族益田氏に伝来した、総数10,000点余りに上る大規模な武家文書です。その全貌は『益田家歴史資料目録』(山口県教育委員会、1979年)から知ることができますが、山陰地方の史料としては質・量ともに随一のものといえます。さらに全国的にみても、関東から西国に移住した武士団ではなくて、これだけの史料が残っている武家は他に例がありません。鎌倉時代から明治・大正に至る益田家文書のうち、中世分すべて800点余りと江戸時代のもの5,700点余りは、現在東京大学史料編纂所に所蔵されています。

幕府から直接所領保証

 益田家文書のうち鎌倉時代のものはほとんど写しで不明な点が多く、それらを位置づけていく作業はなかなか難しい問題を含んでいます。しかしそのなかにも、例えば石見国惣田数注文とよばれる文書のように、鎌倉時代の石見一国の田地の領有状況を示す大変貴重な文書があります。そして南北朝時代になると、益田氏発展の基礎を築いた益田兼見が各地に転戦して手柄をあげ、その関係文書が多数残されるようになります。彼以降、益田氏は直接室町幕府から所領の保証を受ける存在となったのです。

益田家文書の魅力

 ところで益田家文書の魅力の一つは、当時の武士たちのあり方、主人と一族・家臣の関係などを示す、興味深い文書が多いという点です。親から子へと相続時に作られた譲状(所領財産の譲与内容などが書かれたもの)・置文(子孫への教訓などが書かれたもの)や、他氏との盟約に際して交わされた契約状などにその例が多く、それらがしばしば神仏に誓約する形式で書かれている点も注目できます。一方で益田氏は有力守護家である大内氏に従っており、益田家文書には大内氏当主や家臣からの文書も多数含まれています。
 また応仁の乱では大内氏について上洛し、将軍近臣とも親交を結んだことを示す書状類が残っています。その大内氏が毛利氏に滅ぼされて以降は、毛利氏関係の文書が増大していきます。特に永禄11年(1568)益田藤兼・元祥父子が毛利氏の居城安芸吉田郡山城を訪ねた際の長大な記録は大変におもしろいものです。さらに毛利氏天正検地では、元祥は石見国内に一万石以上の知行を得ました。しかし関ヶ原合戦後は、名字の地益田を離れ、それに伴って文書の内容も益田や石見に関するものから長門須佐・萩藩に関するものへと大きく変化していきます。

応永三十三(1426)年七月十三日
益田兼理置文 (益田家文書七十三ノ二)
益田兼理置文

2000年に益田家文書刊行

 このように豊富な内容を持つ益田家文書は早くから注目され、特に中世文書と近世文書の一部1,267点は、江戸時代に125軸の巻子に装丁され大事に保管されてきました。またこの部分の写しである『益田家什書』が作成され、これまで研究の多くは原本ではなくこの写本の方を利用するという状況にありました。
 そこで史料編纂所では、益田家文書の重要性を考え、『大日本古文書家わけ文書』の一つとして、原本による厳密な校訂のもと、巻子部分の全文書を6冊にわたって刊行する計画がたてられています。


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