歴史・文化

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年8月27日更新

 

高津〕柿本神社(かきのもとじんじゃ)

 人麿没後まもない神亀年間(724~729)に、聖武天皇の勅命により終焉の地である鴨島に人麿を祀る小社が建てられましたが、万寿3年(1026)の大地震で島は海底に沈みました。ご神体は現在の高津松崎にまで流れてきたので、そこで新たに人丸社が建てられました。
 600年後、 高津松崎の人丸社は風波による破損がひどくなったため、津和野藩主亀井茲親(これちか)によって、高角山(標高約50m高津城跡)に移築されました。そのため拝殿は、津和野から参拝できるように津和野の方向を向いています。どっしりとした風格の本殿は県指定有形文化財(建造物)です。正一位柿本大明神の神位を持ち、 開運、学問、産業、農業、安産、眼疾治癒、 疫病防除、火防などのご利益があるとして崇敬されています。
 毎年9月1日には八朔(はっさく)祭があり、古式豊かな流鏑馬(やぶさめ)神事が近くの高津川河川敷で催されます。高角橋から神社までの参道には露天が並び、とても賑わいます。

 柿本神社御法楽御短冊(国認定重要美術品)
 柿本神社本殿(県指定文化財)

高津柿本神社の写真
柿本神社本殿の写真1枚目 柿本神社本殿の写真2枚目 柿本神社本殿の写真3枚目

 

所在地島根県益田市高津町イ2612-1

 

戸田〕柿本神社(かきのもとじんじゃ)

 1710年、津和野藩主亀井茲親が創建しました。
 神社の社殿は拝殿、幣殿、本殿からなり、拝殿の唐破風庇(からはふひさし)による向背(こうはい)の彫刻は見事です。この地は、柿本人麿の生誕地とされ、奈良時代から語部(かたりべ)綾部家によって、代々守りつづけられています。現在の綾部家当主は50代目で、戸田柿本神社神官です。綾部家は柿本家の語部として大和から下向してきました。

 人麿御童子像と付帯像計七体(市指定文化財)

戸田柿本神社の写真

所在地島根県益田市戸田町

人麿七体像:7体とも高さ60cm前後の彩色された木像で、「人麿が突然戸田の柿木の下に出現し、語部綾部家で養育された」という伝承に基づき、合掌した童子と驚いた様子の養翁嫗(ようおうおう)の姿が表現豊かに刻まれています。津和野藩御用彫刻師 大島松渓の作と伝わります。戸田柿本神社拝殿前の梁にあるすばらしい龍の浮き彫りや組物、ご神体と七体像、高津柿本神社の神馬も松渓の作とされています。
人麿遺髪塚:戸田柿本神社の近くには、人麿の遺髪を埋葬したという「人麿遺髪塚」があります。戸田柿本神社拝殿彫刻  人磨御童子像と付帯像の写真 人磨御童子像と付帯像の写真

 

医光寺(いこうじ)

 医光寺は臨済宗東福寺派の寺院ですが、もとは崇観寺の塔頭(たっちゅう)でした。崇観寺は貞治2年(1363)に創建され、足利将軍の台翰(だいかん・手紙)をもって住職が任命される諸山格の寺院でした。有名な雪舟は崇観寺の第5代住職で、文明年間(1469~1486)に塔頭のひとつに庭園を残しました。それが後の医光寺で、衰退した崇観寺に代わる寺院として益田家17代宗兼により再興されました。
 医光寺の雪舟庭園は、池泉観賞半回遊式で、鶴池に亀島を配置した蓬莱式(ほうらいしき)の庭となっています。毎年3月中旬には枝垂れ桜が華やぎを添え、5月には一面のツツジが、夏は緑が涼やかで、秋には大きな楓が赤く染まります。そして冬の雪景色は、雪舟の描く水墨画の世界です。
 開山堂の十六羅漢像は17世南嶺和尚による一木造りで、それぞれの羅漢の生き生きとした表情は素晴らしい出来ばえです。
 本尊の薬師如来像は、鎌倉期の「安阿弥」作と伝えられ、脇侍(きょうじ)の日光、月光菩薩もよく均衡がとれ、金箔の上に繊細な色彩がつけられています。
 入り口に立つ総門は、益田氏の居城七尾城の大手門が移築されたものと言われています。
 本堂と総門の間に立つ中門は江戸時代後期に建築されたもので、彫刻などの華やかな装飾が随所に見られます。

 

 医光寺庭園(国指定史跡及び名勝)
 医光寺総門(県指定文化財)
 医光寺中門(国登録文化財)

医光寺の写真 医光寺の写真 医光寺中門

施設情報開館時間 8時30分から17時
休館日 無休
料金一般 500円(400円)、高校生 300円(200円)、小中学生 無料
【かっこ内は団体(20名以上)】
駐車場大型バス 4台
普通車 20台
所在地島根県益田市染羽町4-29
電話番号0856-22-1668

 

萬福寺(まんぷくじ)

 益田氏の菩提寺で、鎌倉時代の様式を残す本堂は国の重要文化財に指定されています。萬福寺はもともと安福寺と称し、益田五福寺の一つとして中須に所在したと伝わります。益田家11代兼見が応安7年(1374)に現在地に創建しました。当時の棟札や古文書が残っています。
 慶応2年(1866)幕府と長州藩が戦った第二次長州戦争(四境戦争)石州口の戦いのなごりとして、萬福寺本堂の柱には今でも弾痕が残っており、寺の歴史の深さが偲ばれます。
 この寺の雪舟庭園は須弥山式(しゅみせんしき)の庭園で、 正面の心字池の向こうになだらかな築山と石組群が見え、明るく穏やかな印象を与えます。
 文化財が多く、本尊は阿弥陀如来で平安時代の作です。

 萬福寺本堂 附棟札7枚(国指定重要文化財・応安7年(1374)建)
 絹本著色二河白道図(国指定重要文化財・鎌倉時代末期)
 萬福寺庭園(国指定史跡及び名勝)
 書院襖絵三十二面(県指定文化財・桃山時代・雲谷派)
 木造阿弥陀如来立像(県指定文化財・13世紀後半の三尺阿弥陀)
 流仏三体像(市指定文化財・平安時代)

萬福寺の写真萬福寺本堂

施設情報開館時間 8時30分~17時
休館日 無休
料金一般 500円(400円)、高校生 300円(200円)、小中学生 無料
【かっこ内は団体(20名以上)】
所在地島根県益田市東町25-33
電話番号0856-22-0302

 

雪舟の郷記念館(せっしゅうのさときねんかん)

 雪舟山水郷の核として雪舟終焉の地「大喜庵」に隣接しており、中国の天童寺を模した茶色の瓦葺きが落ち着いた景観となっています。 後ろには小丸山古墳も隣接しています。
 雪舟が描いた数少ない人物画の一つ「益田兼堯(かねたか)像」を、平成元年(1989)ふるさと創生資金1億円で益田家より購入し、所蔵しています。益田兼堯とは15代益田家当主で、雪舟を当地へ招いた人物です。
 「花鳥図屏風」は、益田兼堯の孫の宗兼が家督を相続する祝いに雪舟が描いたもので、落款はありませんが、花鳥図屏風中最も優れた作品の一つです。

 

 紙本著色益田兼堯像(国指定重要文化財・雪舟筆) 
 安富家文書(県指定文化財・平安末~室町時代、中世益田氏の庶子家に伝わる文書類)
 周布家文書(県指定文化財・室町時代、陶隆房が大内義隆を自害させた事件に関わる文書群)
 紙本着色花鳥図(市指定文化財・伝雪舟筆)
 紙本墨画淡彩山水図屏風(市指定文化財・雲谷等益筆)
 紙本墨画達磨、郁山主、政黄牛(市指定文化財・雲谷等益筆)
 紙本墨画秋江帆舟図、雪山行旅図(市指定文化財・雲谷等益筆)
 絹本墨画蓮鷺図(市指定文化財・斎藤等室筆)
 紙本墨画達磨図 雲谷等屋筆(市指定文化財)
 雪舟禅師像(市指定文化財・高村光雲作)

※展示スケジュールについては、雪舟の郷記念館のホームページ等でご確認ください。

雪舟の郷記念館の写真

 

施設情報開館時間 9時~17時
休館日 火曜日、水曜日、祝日の翌日、12月29日~1月3日
料金一般 300(240)、小中学生 100(80)
駐車場大型バス 4台
普通車 30台
所在地島根県益田市乙吉町イ1149
電話番号0856-24-0500
ホームページhttp://www.iwami.or.jp/sessyu3/

 

大喜庵(たいきあん)

 雪舟が晩年を過した東光寺は、かつては京都五山の東福寺から名僧が派遣されて住持となるほどの名刹であり、経堂も備わった大伽藍だったといわれています。大喜庵はその東光寺が焼失した跡地に建てられたお寺です。 当時は吉田平野をこえて日本海を望む様子が、中国の洞庭(どうてい)・瀟湘(しょうしょう)の景をそのまま眼下に展開させる趣があり、その風景を雪舟が好んだことと、戦乱の世にありながら益田領が「弓の音聞かぬ国、鞆の音聞かぬ国」としての平和郷であったことが、雪舟にこの地を選ばせたと思われます。また、悠悠自適の生活を送る雪舟が愛好したものに、 清水を湛えた霊巌泉があり、硯や茶の水に使ったといわれます。現在でも雪舟禅師を偲んで、この水の愛好者が絶えません。 雪舟の墓は大喜庵の裏の墓所にあり、偉人を慕う人々が国の内外から多く訪れています。
 また、大喜庵の創建者である大喜松祝もこの墓所に眠っています。

 木造観音菩薩立像(県指定文化財・平安時代)
 乙吉大喜庵墓地雪舟墓(市指定文化財)

大喜庵の写真
雪舟の墓の写真 雪舟の墓の写真 雪舟の墓の写真

駐車場雪舟の郷記念館の駐車場利用
所在地島根県益田市乙吉町イ1149
電話番号0856-24-0500
ホームページhttp://www.iwami.or.jp/sessyu3/

 

中世今市船着場跡(ちゅうせいいまいちふなつきばあと)

 大喜庵のふもとを流れる今市川の川べりに、石垣が約30m続いています。 中世の頃は益田川と高津川が合流していた地点と推定され、船着場として最適な場所であったと考えられています。 石垣自体は江戸時代以降に造られたものですが、戦国時代に今市は港及び市場として機能していました。

 中世今市船着場(市指定文化財)

  中世今市船着場の写真今市石垣

所在地島根県益田市乙吉町

 

伝益田兼見の墓(でんますだかねみのはか)

 萬福寺境内の椎山墓地にある五輪塔群の一つで、益田家11代兼見の墓と伝えられます。
 兼見は、14世紀中頃、三宅御土居に館を移し「田数目録帳」を作成。またこの時期に医光寺(崇観寺)・萬福寺等が建立され、館を中心とした中世的な都市景観が作られました。

 萬福寺椎山墓地五輪塔(伝益田兼見墓)(市指定文化財)

益田兼見の墓の写真

 

所在地島根県益田市東町25-33

 

伝益田兼堯の墓(でんますだかねたかのはか) 

 七尾城跡の尾崎丸山麓の大雄庵跡近くに益田家15代兼堯のものと伝わる墓(五輪塔と宝篋印塔の残欠)があります。兼堯は応仁の乱以降の激動期に、大内氏と共に石見を支配する国衆として各地で戦いました。兼堯は文化を愛し、崇観寺(現医光寺)住職に雪舟を招いたとされます。

 大雄庵跡宝篋印塔(伝益田兼堯墓)

益田兼堯の墓の写真

所在地島根県益田市七尾町

 

伝益田藤兼の墓(でんますだふじかねのはか)

 益田家19代藤兼の墓と伝えられている五輪塔が七尾城跡南の桜谷にあります。藤兼の時代に石見の地域連合が崩れるなか、毛利氏と服属関係を結び、城の修築、三宅御土居の改修、海外貿易の発展に努め、町並みも城下町として整備していきました。
 小川を隔てた対岸には、13代兼家の墓と伝えられる五輪塔もあります。

 妙義寺桜谷五輪塔(伝益田藤兼墓)(市指定文化財)

益田藤兼の墓の写真

所在地島根県益田市七尾町

 

歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)

 この建物は、大正10年(1921)美濃郡役所として建てられました。 その後、益田警察署、益田総合事務所を経て、昭和58年(1983)5月益田市立歴史民俗資料館として開館しました。平成8年(1996)に国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
 大規模な中世の山城である七尾城(益田城)や益田氏の館であった三宅御土居と、その周辺の町並みの想像模型を展示しています。
 また、郷土の偉人である作家田畑修一郎、棋士岩本薫和、活動写真弁士徳川夢声の遺品も常設展示しています。

 益田市立歴史民俗資料館(旧美濃郡役所)(国登録文化財)

益田市立歴史民俗資料館の写真

施設情報開館時間 9時から17時 入館受付16時30分まで
休館日 火曜日、水曜日、祝日の翌日、年末年始(12月30日から1月4日)
料金一般 200円、団体料金(20名以上)160円
高校生以下無料
駐車場あり
所在地島根県益田市本町6-8
電話番号0856-23-2635
ホームページhttp://www.iwami.or.jp/rekimin/

 

七尾城跡(ななおじょうあと)

 七尾城は、中世益田氏の居城で、頂上の本丸跡は標高118m、益田平野と日本海を一望することができます。全長600m以上の大規模な山城ですが、石垣は築かれていません。居館跡の三宅御土居とは、益田川をはさんで870mの距離です。
 築城された時期は諸説ありますが、文献上に現れるのは南北朝時代からで、南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」を急襲したことが古文書に残っています。 戦国時代の末、益田家19代藤兼は毛利氏の攻撃に備えて七尾城を改修し、自身も居住していましたが、和睦に伴い下城し、再び三宅御土居を本拠にしました。
 中世七尾城の大手門は、 現在、医光寺前に移築されています。

七尾城跡七尾城跡の写真

 益田氏城館跡(国指定史跡 三宅御土居跡と合わせて中世城館跡として)

所在地島根県益田市七尾町

 

染羽天石勝神社(そめはあめのいわかつじんじゃ)

 式内社である染羽天石勝神社は御朱印地を持った神社として有名で、祭神は天石勝命です。
 社伝によると神亀2年(725)に創建され、滝蔵権現と称して、承平元年(931)には別当寺勝達寺を建立し、中世には益田氏の庇護を受けて発展しました。 しかし、明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃絶され、権現は社名を染羽天石勝神社に改めました。
 本殿は三間社流造で、3間×3間の身舎(もや)の前に奥行き1間の吹放し板張りの庇床(ひさしゆか)を設け、両側のみに高欄付の縁があります。このような構造はとても珍しいものです。
 棟札の写しによると、天正9年(1581)に本殿が焼失したため、益田家20代元祥が大旦那、父藤兼が後見になって再建されました。

染羽天石勝神社本殿の写真 染羽天石勝神社本殿

 染羽天石勝神社本殿(国指定重要文化財・天正11年(1583)建)

所在地

島根県益田市染羽町1-60

 

三宅御土居跡(みやけおどいあと)

 南北朝時代に益田家11代兼見によって築造されたといわれる中世益田氏の居館跡です。 この館跡は、土塁で囲まれた2ヘクタール余りの広さをもっていますが、現在土塁は東西にしか残っていません。この居館跡は益田氏が、関ヶ原合戦後に須佐に移封されるまで使用されていました。

三宅御土居跡三宅東土塁

 益田氏城館跡(国指定史跡・七尾城跡と合わせて中世城館跡として)

所在地島根県益田市三宅町

 

七尾城通り(ななおじょうどおり)

 益田氏の館であった三宅御土居跡(国指定史跡)より、益田川を越えて七尾城跡までの中世城下町の遺構を「七尾城通り」として保全しています。

暁音寺山門および鐘楼

 暁音寺山門及び鐘楼(市指定文化財)
 木造阿弥陀如来立像(県指定文化財・暁音寺)

所在地島根県益田市七尾町

 

福王寺石造十三重塔(ふくおうじせきぞうじゅうさんじゅうとう)

 福王寺は益田川西岸の中須町にある浄土宗の寺です。 石塔はかつて五福寺のひとつ安福寺があった中須浜崎の寺屋敷跡から、享保14年(1729)の益田川大洪水の際に掘り出されたもので、 石台には「享保十四年六月九日、九重宝塔出現建立」とあります。その後、二段の塔石が発見され、現在は十一重塔になっていますが、全体的なバランスからもとは十三重塔であったと思われます。 鎌倉時代後期の県内最古の石造美術品です。

 福王寺石造十三重塔(県指定文化財)

福王寺石造十三重塔の写真

所在地島根県益田市中須町182

 

櫛代賀姫神社(くししろかひめじんじゃ)

 益田川河口を見渡せる丘の上にある古い神社で、延喜式所載の神社として崇拝を集めてきました。祭神の櫛代賀姫命は櫛代族の先祖神で、天平9年(737)に社殿建立、そして大同元年(806)に鎌手大浜浦より現在地に遷座しました。
 今の建物は明和2年(1765)に再建された建築を基本としながら、後世の修理により部材の更新や改修が行われていますが、細部に建築当初の部材を残しています。
 また、例大祭に執り行われる角力(すもう)神事、針拾い神事、獅子舞神事は神社遷座にまつわる古事にならったもので大変珍しいものです。

櫛代賀姫神社本殿

 櫛代賀姫神社本殿(国登録文化財)

所在地島根県益田市久城町963

 

鴨島展望地(かもしまてんぼうち)〔久城が浜センター前〕

 益田川河口近くの高台に柿本人麿終焉の地といわれる「鴨島跡」を正面に望める展望地があります。
 ここから西の方向には、美しい弓形の海岸線のむこうに、大道山系の山々が海にのびています。 晴れた日は山陰の青い海と空が爽やかで、夕方は入日で赤く染まります。

鴨島展望地

所在地島根県益田市久城町

 

岸静江国治の墓及び扇原関門跡(きししずえくにはるのはかおよびおうぎはらかんもんあと)

 蛤御門の変(1864)で長州軍は朝敵となり、幕府は慶応2年(1866)、第二次長州戦争の軍を起こし、四境(石州口・芸州口・大島口・小倉口)より戦端を開きました。 そのうち石州口の戦場となったのが益田市域です。幕府軍は浜田藩400名、福山藩600名の連合軍で、 6月17日の朝、益田に布陣しました。
 一方、大村益次郎率いる長州軍1500名は幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門(益田市多田町)に迫りました。 関門を守るのは、扇原関門守備隊長の浜田藩岸静江国治と少数の士卒、そして農民兵16名のみです。圧倒的多数の長州軍は、何度も開門を迫りましたが、 藩命を遵守した岸静江は断固拒絶し、石州口の戦いの火ぶたが切られました。
 槍の名人であった岸静江は甲冑で武装を固め長州軍の前に立ちはだかりました。しかし近代兵器の前ではなすすべもなく、銃弾を浴びて立ち姿のまま絶命したといいます。
 感嘆した長州軍は一度横田へ帰陣し、埋葬と碑建立費用を拠出して梅月西禅寺住職に依頼しました。 岸静江は享年31歳。彼の脇差は益田市立歴史民俗資料館に保管されています。
 翌6月17日、長州軍は扇原を通り益田口へ来襲し、本陣を妙義寺に構えました。また、16日には、育英隊と須佐隊もそれぞれ戸田と持石浦に上陸し、高津に着陣しています。 勝達寺、医光寺、萬福寺に布陣した幕府軍との戦いは双方互角の打ち合いで大戦となりましたが、形勢は次第に長州に傾き、夕方には長州軍の勝利に終わりました。 萬福寺本堂に当時の弾丸の跡が残っています。

 岸静江国治の墓及び扇原関門跡(市指定文化財)

岸静江墓碑扇原関門跡

所在地島根県益田市多田町

 

島根県芸術文化センター グラントワ(島根県立石見美術館・島根県立いわみ芸術劇場)

 歴史ある石見の地で、ひときわ美しい石州瓦の建物が、島根県芸術文化センター「グラントワ」です。「グラントワ」とはフランス語で「大きな屋根」を意味し、その愛称にふさわしく石州瓦が彩る大きな屋根の下、美術・音楽・演劇など幅広い芸術が集い、新しい文化が広がっていきます。
 グラントワの建物は石州瓦28万枚を使用して建てられており、 第48回BCS賞や第14回しまね景観賞大賞等、多くの賞を受賞しています。 この建物を鑑賞するために訪れる観光客も多くいます。

 平成29年(2017)には、県立石見美術館で、中世の益田を中心とした大規模な企画展「石見の戦国武将」が開催されました。

 

 絹本著色益田元祥像(国指定重要文化財・県立石見美術館所蔵)

グラントワの写真

 

施設情報
(島根県立石見美術館)
開館時間 10時から18時30分
休館日 祝日除く火曜日(祝日の場合は翌平日休館)、年末年始
施設情報
(島根県立いわみ芸術劇場)
開館時間 9時から22時
休館日 第2・第4火曜日(祝日の場合は翌平日休館)、年末年始
料金

企画展
一般1,000円(800円)、大学生 600円(450円)、小中高生 300円(250円)

コレクション展
一般 300円(240円)、大学生 200円(160円)

年間パスポート
一般 3,000円、大学生 1,800円、小中高生 900円

駐車場あり
所在地

島根県益田市有明町5-15

電話番号0856-31-1860
ホームページ

http://www.grandtoit.jp/

 

益田糸操り人形(ますだいとあやつりにんぎょう)

 益田に糸操り人形が伝わったのは明治20年頃といわれています。東京浅草で糸操り人形芝居を興行していた山本三吉が、操り人形の衰退に伴い関西を経て益田に至り、当時盛んであった浄瑠璃の愛好家たちの集まり「小松連」に迎えられたことに始まります。彼の指導の下に現在の益田糸操り人形芝居は形づくられました。この人形芝居は、人形操者、太夫、三味線、後見で上演され、地は義太夫節です。
 人形の操法は、使い手が高さ2mの歩み板の上から、丈約70cmの人形の各所に13本から18本の糸を結び付けて、「四つ目」と呼ばれる手板を使って人形に微妙な動きを与えるもので、その操作には熟練を要します。この、益田糸操り人形は、東京の結城座や竹田座に現存する改良された形態とは異なる古い形で、このような古い形を留めたままで上演されているものは、わが国で上演されている操り人形芝居の中では唯一といわれています。現在、島根県芸術文化センター「グラントワ」で定期公演が行われています。

 益田糸操り人形(県指定無形民俗文化財)
 糸操り人形の頭及び胴、附・馬3頭・舞台襖72枚・遠見2枚・立看板12枚(県指定有形民俗文化財)


益田糸あやつり人形

 

佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)

 比礼振山(ひれふりやま)の中腹近くに「佐毘売山神社」という900年代の書物「延喜式」にも見える古い神社があります。この神社は都茂丸山鉱山で働いていた人々の守り神でした。石見銀山にも同じ名前の神社がありますが、この乙子町の佐毘売山神社から分祀されたものです。その昔、都茂丸山鉱山で働いていた人々が、その技術とともに石見銀山に移動した際に、彼らの大切な守り神も分祀され、共に移動したものといわれています。

所在地島根県益田市乙子町151番

 

棚田の里 中垣内(たなだのさと なかがうち)

 中西地区は、大道山(別名:打歌山(うつうたやま))に抱かれ、裾野を清流白上川が流れる美しい風景が見られる地域で、特に中垣内の棚田の風景は格別です。中垣内の棚田は、その美しさから「日本の棚田百選」に選ばれました。斜面を切り開いた石積みの棚田は、面積135アール、147枚に及び、水源はすべて大道山からの出水で維持管理されています。開発の起源は中世といわれ、歴史の古さと先人の大変な苦労が偲ばれます。
 また、棚田のそばにある白岩神社の境内に、100年前に作られた「回り舞台」があります。直径4.4mの回転舞台の下には木製のハンドルがあり、それを床下から数人の人力で回すことができるようになっています。今は2年に1度、お盆のころに新作の芝居が住民たちにより上演されています。

棚田の里 中垣内

所在地島根県益田市中垣内町

 

旧割元庄屋 美濃地屋敷(きゅうわりもとしょうや みのじやしき)

 背後に山地を背負って構える屋敷構えは壮大で、 古くは三方に水流の濠をもち、中央には母屋、表側には長屋門、そして勘場、牛舎、養蚕室、二階倉が立ち並び、側面は土壁で仕切られていました。
 美濃地家は、たたら業の支配人として尽力する一方で、村政を統括する庄屋を務め、江戸時代後期には数村を管理下におく割元庄屋(大庄屋)をたびたび命じられるなど、被支配者層の頂点をきわめた家柄でした。
 通常の屋敷が四間取り系であるのに対して、美濃地家は六間取り系で、代官などの支配階級者の接待のための座敷の間があることが特徴です。 土間から見上げる力強い梁組は五段からなり、とくに牛引き梁は方三尺(約1m)もあって、これを支える大黒柱は方一尺一寸(約30cm)を測り、富裕な庄屋であった威厳を今に伝えています。

 旧美濃地家住宅主屋、旧美濃地家住宅米蔵(国登録文化財)

美濃地屋敷の写真旧美濃地家住宅主屋外観旧美濃地家住宅米蔵外観

所在地島根県益田市匹見町道川イ50

 

秦記念館(はたきねんかん)

 美都町出身の世界的医学者秦佐八郎博士に関する資料、遺品が多数展示されています。秦佐八郎博士は、ドイツ国立実験治療研究所所長のエールリッヒ博士(ノーベル賞受賞者)と共に梅毒の特効薬サルバルサン(俗称606号)を発見し、人類平和に貢献しました。

秦記念館の写真

所在地島根県益田市美都町都茂807
ホームページhttp://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/57/1967.html

 

大久保広兼 石州和紙資料館(おおくぼひろかね せきしゅうわししりょうかん)

 承応元年(1651)に御用紙漉を仰せ付けられた初代廣兼又兵衛重長以後200年間、廣兼家13代に及ぶ資料を展示しています。 隣接した母屋は宿泊施設「かみの宿」となっており、 囲炉裏のある昔ながらの生活を体験できます。

石州和紙資料館

所在地島根県益田市美都町都茂3045

 

都茂丸山鉱山(つもまるやまこうざん)

 この鉱山の歴史は、操業期間が1100年を超える非常に古いものです。
 発見された時の記録としては「日本三代実録」に元慶5年(881)3月に銅が発見され、朝廷から2人の役人を調査に行かせたという記事があります。世界遺産石見銀山との関わりは深く、都茂丸山鉱山で働いていた人々がその技術と共に石見銀山へ移動したといわれています。明治以降には休山と開発が繰り返されてきましたが、昭和62年(1987)に閉山しました。
 都茂鉱山では世界で最初にBiTe鉱物が発見され、鉱物名委員会により、産地の鉱山名にちなんで都茂鉱(tsumoite)として認められました。

所在地島根県益田市美都町都茂

 

四塚山古墳群(よつづかやまこふんぐん)

 昭和47年(1972)に団地造成現場で、前期古墳を象徴する中国製の鏡・三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が発見され、当地に石見で最古の古墳が存在していたことがわかりました。
 地元では昔から4基の塚があったことが知られており、四塚山と呼ばれていました。 現在は開発により古墳の大半は残っておらず、古墳の内容を知ることはできませんが、三角縁神獣鏡が出土したことから、古墳時代前期(4世紀)につくられたと考えられます。日本海まで一望できる丘陵の一角に位置する当地に、石見地方を代表する首長が存在していた可能性を示しています。

所在地島根県益田市下本郷町

 

大元古墳群(おおもとこふんぐん)

 大元古墳群は前方後円墳の1号墳、円墳の2号墳からなります。 特に1号墳は丘陵の尾根を利用して築造されており、全長85m、後円部の高さ7mと石見地方で最大級の古墳です。
 墳形や後円部から出土した埴輪の特徴から4世紀末~5世紀初めに築かれたものと考えられます。三角縁神獣鏡が出土した四塚山古墳群に次いで築かれ、スクモ塚古墳(5世紀前半)、小丸山古墳(6世紀前半)へと続く首長墓のひとつと考えられます。

  大元古墳群(県指定文化財)

大元古墳群大元古墳群の写真

所在地島根県益田市遠田町

 

スクモ塚古墳(すくもづかこふん)

 益田川以東には比較的多くの古墳がみられますが、なかでも久城丘陵のほぼ中央に位置するスクモ塚古墳は、石見はもちろん県内でも最大級の古墳として有名です。
 これが古墳であると判明したのは、昭和14年(1939)に郷土史家の矢冨熊一郎氏の発見によるもので、その後文部省の調査により昭和16年(1941)12月に国の史跡に指定されています。 築造された年代は、出土した円筒埴輪などから古墳時代中期(5世紀前半)とみられます。 これだけの規模の古墳に眠る主は、益田平野東部もしくは久城台地一帯を支配していた首長クラスであると想像されます。
 スクモ塚古墳は、直径57mの「造り出し付円墳」として国の指定を受けていますが、平成19年度に島根県埋蔵文化財調査センターによって最新の測量調査が実施され、その結果前方後円墳の可能性を指摘しました。もしそうであれば復元全長100mと、県内で最大の前方後円墳になります。

  スクモ塚古墳(国指定史跡)

スクモ塚古墳の写真 スクモ塚古墳の写真

所在地島根県益田市久城町

 

小丸山古墳(こまるやまこふん)

 小丸山古墳は益田平野を一望できる山頂に位置します。 墳丘の全長は約52m、後円部の高さは7.3mと石見地方でもトップクラスの規模を誇る6世紀初め頃の前方後円墳です。古墳の周囲に周溝と外堤を備えているのが特徴で、このような形態のものは石見で唯一です。
 隣接する大喜庵や雪舟の郷記念館と共に、歴史公園「雪舟山水郷」として整備されています。

  小丸山古墳(市指定文化財)

小丸山古墳の写真

所在地島根県益田市乙吉町

 

鵜の鼻古墳群(うのはなこふんぐん)

 益田市の北東、日本海に突き出した半島上に横穴式石室を持った小さな古墳が多数造られています。 6世紀後半~7世紀にかけて築造された鵜の鼻古墳群です。
 多くの古墳が存在することは古くから知られていたようで、江戸時代後半頃に著された「石見八重葎」に「津田遠田の辺塚穴167存し、昔50余りあり」の一文が見られ、その後の研究者によっても当古墳群の総数は50基あまりと認識されてきています。
 現在確認されている古墳は、全長がいずれも30mほどの前方後円墳4基、一辺13mの方墳1基を含む約30基で、中でも比較的保存状態の良い19基は県指定史跡となっています。
 古墳群の大半を占める円墳はいずれも10m前後の小規模なもので、長さ4~6mの横穴式石室を持っています。 石室は、細長い玄室に羨道が片側に寄せてつく片袖式の平面形をとっているものが大半ですが、一部に側壁と奥壁に石を三角形状に架け渡した三角持送りという特徴的な構造を持つものもあり、この構造と共通する技法を北九州あるいは朝鮮高句麗に見ることができます。

  鵜の鼻古墳群(県指定文化財)

鵜の鼻古墳群の写真 鵜の鼻古墳群の写真

所在地島根県益田市遠田町

 

匹見地域の遺跡群(ひきみちいきのいせきぐん)

 匹見地方に人々が定住したのは2万3千年前の旧石器時代と考えられ、その後も人々が定住し文化を築いていったことは、新槙原遺跡をはじめ石ヶ坪、水田ノ上、イセ、ヨレなどの縄文遺跡、下手、江田平台、松田原などの弥生遺跡、和田、江田、田原、牛首などの古墳の数々が物語っています。

 

 新槙原遺跡(県指定文化財・旧石器~縄文前期)

 田中ノ尻遺跡(市指定文化財・縄文早期~前期)

 上ノ原遺跡(市指定文化財・縄文早期)

 中ノ坪遺跡(市指定文化財・縄文前期)

 石ヶ坪遺跡(市指定文化財・縄文中期~後期)

 上家屋遺跡(市指定文化財・縄文後期)

 水田ノ上遺跡(市指定文化財・縄文晩期)

 ヨレ遺跡(市指定文化財・縄文晩期~弥生)

 イセ遺跡(市指定文化財・縄文晩期~弥生)

 和田古墳(市指定文化財・古墳後期)

 田原古墳(市指定文化財・古墳後期)

 牛首古墳(市指定文化財・古墳後期)

 江田古墳(市指定文化財・古墳後期)

所在地島根県益田市匹見町

 

中須東原遺跡(なかずひがしはらいせき)

 益田川河口部に位置する中世の湊町の遺跡で、舟着場・荷揚げ場跡と思われる礫敷きや、鍛冶炉跡などが良好な状態で残り、また国内各地や中国・朝鮮・東南アジアの陶磁器も豊富に出土しました。これらにより、中世の湊町と交易の様子を現在に伝える貴重な遺跡として注目されています。

 中須東原遺跡(国指定史跡)

中須東原遺跡

所在地島根県益田市中須町

 

四ツ山城跡(よつやまじょうあと)

 鎌倉時代の中期に益田氏によって築城されたという山城で、戦国時代には毛利氏と尼子氏の対立を背景に隣国の三隅氏との間でこの領地をめぐって幾度も戦いが繰り返されました。名前の通り高さも形も同じ四つの山が東西に並んでおり、その山容の美しさから地域の象徴として人々に親しまれています。

 四ツ山城跡(市指定文化財)

四ツ山城跡の写真

所在地島根県益田市美都町仙道・朝倉・小原

 


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