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市長室からこんにちは(平成30年5月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年4月26日更新

  明治維新150 年の今年、脚光を浴びる維新の英傑はたいてい薩摩や長州など「官軍」側の人物です。しかし、「賊軍」とされた幕府側にも多くの人材がいました。なかでも群を抜く才知と胆力を併せ持っていた忠臣といえば小栗上野介忠順です。

 1827 年に名門旗本の家に生まれた小栗は、34歳のとき遣米使節に加わり、不公正だった日米の貨幣交換比率の改定交渉に臨みました。両国の小判と金貨の貴金属の含有量科学的に実証し、粘り強く堂々と主張したその態度は相手方に強い印象を与え、現地の新聞までもがこぞって賞賛しました。外国人が最初に認めた「サムライ」は小栗だったのかもしれません。

 帰国後、外国奉行を皮切りに、勘定奉行、江戸町奉行、海軍奉行、陸軍奉行などの要職を次々と歴任しました。平生は疎んじられる小栗の鋭すぎた頭脳が、事態が切迫する度に必要とされたのです。

 滞米中の見聞から、鉄こそ国家発展の要と確信した小栗は、1865年、横須賀製鉄所の着工に踏み切ります。財政はすでに火の車で、徳川の威信も揺らぐ中、巨額の投資に対する反対の声もありました。小栗はその思いを「幕府が滅んでもその遺産が将来の日本のためになれば幕府の名誉だ。どうせ家を譲り渡すのなら土蔵を付けてやりたい」と親しい知人にのみ打ち明けました。

 しかし小栗の胸中を理解せずその手腕をただ恐れた新政府は、政権を握るや、不確かな罪状で小栗を捕縛し、まともな裁判にもかけないまま、1868 年5月27日、処刑してしまいました。

 その37年後の同月同日は、日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦の日となりました。連合艦隊を率いた東郷平八郎は、のちに小栗の子孫を自宅に招き、「勝てたのは小栗氏のお陰です」と丁重に礼を述べました。小栗の死後完成した横須賀製鉄所が後に海軍工廠となり、そこで艦船を随時整備できたため、いつも万全の状態で海戦に臨めたからです。

 今年は、救国の恩人でもある不世出の逸材の刑死からも、やはり150 年なのです。