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市長室からこんにちは(平成30年11月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年10月24日更新

 郷土の誇る世界的医学者・秦佐八郎は、明治6年に島根県美濃郡都茂村(現在の益田市美都町都茂)で生まれました。生家の山根家は裕福な庄屋でしたが、14歳のとき、代々村医者だった親戚の秦家の養子となりました。実の両親にとって、幼少期のいたずらに手を焼きながらも目の中に入れても痛くない八男・佐八郎がいなくなることは、言い知れぬ寂しさがありました。しかし、医者の家を継がせることがその才能を最大限に活かす道と考えたのです。

 

 18歳で第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)に入学すると、同級生はおろか教授たちも舌を巻く秀才ぶりを示します。佐八郎の試験答案を採点していた担任が、自分も知らない知識が書かれていたのを不審に思い、図書館で調べてみると、果たして外国の最新論文の的確な引用だったことがわかったのです。卒業後は岡山の病院に勤務しますが、徐々に研究者としての前途を嘱望されるようになります。

 

 このような岡山における佐八郎の抜群の成績と評判は、秦家や都茂村の人々にとって誇りである一方、不安の種でもありました。せっかく得た村医者の跡取りには一日も早く郷里で診察にあたってほしいというのが本音だったからです。折しも養父が早逝すると、佐八郎の帰郷を求める声がさらに高まります。しかし最終的には養祖父自ら、医学研究での貢献こそ家や郷土の最高の名誉として研究の道に進むことを容認したのです。この寛大な判断は、医家としての秦家の断絶を伴うものでした。

 

 こうして25歳にして上京が叶い、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)に入所しました。同僚には野口英世や志賀潔がいました。入所の翌年に神戸で、その2年後に和歌山で、死亡率の高いペストが相次いで流行すると、自ら現地入りし治療と予防にあたりました。その経験を綴った12編の論文は後に一冊の本にまとめられ、ペスト対策の決定版として長らく重宝されました。

 

 危険を恐れぬ沈着な仕事ぶりは、佐八郎の評価を大いに高め、次の新天地への雄飛につながります。