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市長室からこんにちは(平成30年12月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年11月30日更新

 故郷を離れ、岡山で医学の基礎を修め、東京で研究に没頭し、神戸や和歌山で実地の感染症対策に当たった秦佐八郎は、30代半ばにして当時の医学最先進国であるドイツに留学しました。

 そのさなか、ペストに関する研究発表をベルリンで行なった際、運命的な出会いがありました。歩み寄ってきた見知らぬ老紳士から不意に「長年のペスト研究の間、危険はなかったかね」と尋ねられ、「多少の危険はありますが、注意すれば問題ありません。牢屋の罪人にやられるようでは看守失格です」と答えたのですが、この豪胆で自信に満ちた回答に感服した質問者こそ細菌学の大家パウル・エールリッヒ博士だったのです。相当の困難が予想される梅毒の研究に臨み、信頼できる片腕を求めていた博士としても、これ以上ない逸材を掘り当てたわけです。

 新しい特効薬の開発は気の遠くなるような注意と忍耐を要しました。様々な薬剤の配分を毎回わずかずつ変化させ、試行と失敗を際限なく繰り返すという苦行の末、明治43年4月、ついに人類初の化学製剤「サルバルサン606号」が完成しました。

 「魔法の弾丸」と呼ばれたサルバルサンは単に梅毒を治すだけでなく、医学全体を大きく前進させるものでした。人類にとって長らく有効な治療の手立てがなかった感染症に対し、化学物質の持つ特殊な毒性を利用して病原体の増殖を抑える化学療法はまさに画期的だったのです。その後同様の手法で多くの科学者により次々と新しい化学薬品が発見され、地球上の多くの病気が克服されました。

 秦佐八郎の生涯は転機の連続でしたが、誠実な人柄も手伝い、常に周囲から温かく理解され、期待されるという幸運に恵まれました。そしてこれに報いようとする強い使命感こそが、天賦の才能を開花させ、ついに医学の新しい扉を開くに至らせた超人的努力の源泉だったのです。

 秦佐八郎は昭和13年11月22日、65年の生涯を閉じました。没後80年となる今年の顕彰事業では、その偉業に改めて光が当たります。