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市長室からこんにちは(令和2年3月号)

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年2月25日更新

 「歴史は勝者によって作られる」と言われます。幕末に開国を断行し、これに抵抗する強硬派を厳罰に処した大老井伊直弼(いい なおすけ)が、そのために恨みを買って殺害されたばかりか、その後の戊辰戦争の結果、官軍となった明治政府主流派により極悪人の烙印を押されたのはその一例です。

 直弼の出身母体である彦根藩35万石は、徳川家康の天下取りの大功労者である井伊直政を藩祖とします。井伊家は江戸時代最多の大老を輩出し、譜代筆頭の家柄でした。

 その直系とはいえ、十四男という藩主の座に程遠い生まれだった直弼は、18歳から32歳までの青春時代を自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた城下の質素な屋敷で過ごし、居合、禅、茶道などに打ち込みます。著書である『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』の冒頭に「一期一会」の意義を述べたくだりは、茶道の心得を端的に表現したこの四字熟語の初出例とされます。

 数奇な運命が訪れたのはそれからのことです。藩主の世継ぎが早逝し、他の兄がみな他家に養子に出ていたため、直弼は期せずして第13代当主となりました。それだけでも異例の栄達でしたが、幕末の動乱の中、瞬く間に臨時の最高職である大老にまで登り詰めてしまいました。

 黒船来航以降、強大な軍備を伴って開国を要求する外国の圧力と、その外国人を毛嫌いする攘夷の狂気が渦巻く中、国の独立と幕府の正統性をともに保つには非常の決断が必要でした。そして、直弼以外にその覚悟と責任感を持つ重臣は幕府にはいなかったのです。

 必然として積もった遺恨は、安政7(1860)年旧暦3月3日雪の朝、「桜田門外の変」として暴発します。水戸浪士らによる前代未聞の大老襲撃は、幕末維新を血で染める無軌道なテロリズムの走りとなりました。

 藩主在任期間は短かったものの、その遺徳を偲(しの)ぶ彦根の人々は明治以降もしばらくは桃の節句を祝わなかったといいます。近代日本最初の国難を一身に背負い、果断に対処した開国の恩人との評価が近年ようやく定着しつつある井伊直弼。その横死から160年後の春となります。