【益田市・寧波市 友好30周年記念スペシャル対談】日本画家・川崎麻央×益田市長・山本浩章

更新日:2023年03月22日

  益田市と寧波市の友好交流議定書締結30周年を記念し、両市で記念品を交換しました。

両市交流の由来となった画聖・雪舟が船に乗って寧波に渡ったことにちなみ、寧波市から益田市へは「古代貿易船の模型」が贈られ、益田市からは益田市出身の日本画家・川崎麻央さんの日本画を贈りました。

友好30周年記念として、記念品の作者である川崎麻央さんと山本市長のスペシャル対談をお届けします。

【益田市・寧波市 友好30周年記念スペシャル対談】日本画家・川崎麻央×益田市長・山本浩章

―本格的に絵を始めたのは高校卒業後―

山本 この度は、益田市から寧波市への記念品の制作を引き受けていただきありがとうございました。素敵な絵を描いていただけたことも本当に嬉しく思います。川崎(「崎」の文字の右側上部は「立」)さんは、中学生の時に益田市少年友好訪問団の一員として、寧波に行かれたと伺いましたが―

川崎 2002年、中学3年生のときに、訪問団に選んでいただき寧波市を訪問しました。

山本 そのときの思い出はありますか。

川崎 ホームステイをしたときは日本のマンガの話ばかりしていました。ホストファミリーの家には名探偵コナンがずらーっと並んでいて。西湖などいろいろな観光地にも連れて行ってもらいました。朝ごはんは屋台で食べたり出前を取ったりする文化で、一人前がすごく多かったのが印象的でした。今でも当時覚えた中国語の自己紹介が言えます。

山本 その頃から絵はお好きだったんですか。

川崎 中学校頃はどちらかというとスポーツというか、部活を一生懸命やってるような子で、絵は全くやっていませんでした.

山本 そうですか。では絵を本格的にはじめたのはいつ頃ですか。

川崎 本格的に描き始めたのは高校卒業後になるのですが、高校最後の進路希望の辺りで、いよいよ進路を決めなければいけない時に、どうしようっていろいろ考え始めました。きっかけというきっかけは正直ないんです。母親が学芸員で、小さい頃によく美術館に連れてってもらったような気はするし。絵の道に進むことに対して、いいじゃんって言ってくれるような環境ではあったなと思います。

山本 高校3年生で進路を決めようというときに、絵の道に進もうっていうのは、勇気のいることだったでしょうね。

川崎 最初はやっぱり言い出しにくかったですね。今までコンクールとか出したこともないし、実績もないのに突然言い出せないなというのが正直ありました。いわゆる画家とかじゃなくて、製品デザインとか、工業製品的なもののデザイナーを目指そうかなって言ってたんです。でも、母親に本当は画家の道に進みたいんじゃないのって言われて―

山本 お母様は川崎さんの気持ちに気づかれていたんですね。

川崎 そうですね。言いたいこと、言いにくいことがあるんじゃないかなって悟ってくれて。当時母親は雪舟の郷記念館の館長で、友人で多摩美術大学の日本画出身の方に、娘が絵をやりたいみたいなんだけどって相談をしたら、その方が、わしが教えちゃろうかと言ってくれたんです。それが当時、浜田市の石正美術館の館長をされていた平坂先生でした。

山本 平坂さん、私もよく存じ上げています。

川崎 平坂先生には信じられないくらい親身にサポートしていただきました。家から歩いて20分ぐらいのところのアトリエみたいな建物の鍵をもらって、放課後自由にそこに行って夜まで描いてました。たまに先生が休みの日に来られて。ここをこうしなさいという指導ではなく、新しいモチーフを持ってきてくださったり。先生はご自身の浪人時代の話を聞かせてくださったり、使っていた水彩絵の具のパレットみせてくださいました。そういうのを見たり聞いたりすると、よりイメージがこう現実化してくるというか。ずっと半信半疑で、自信が持てない状態で悩みながらではあったんですけど、高校3年の終わりの頃には、どうなるかわからないけど、とりあえず美大を受験してみようと決意していました。

山本 勉強だと模擬試験とか、学校の成績とかで、今自分がどのくらいの位置にいるのか、いけるいけないがわかると思うんですけど、絵の世界って点数つけられないですもんね。才能があるのかないのかとか。

川崎 しかも自分も他人もわからない―

山本 向いてるか、どれだけ好きかどうかも量れない。

川崎 だからこそできたのかもしれません。未知数過ぎて。いっちゃえみたいな。高校3年生で初めて美大を受けましたが、試験中にも学ぶことがありすぎて。試験時間が12時間ぐらいあるんですけど、こういう人たちはこんな風に鉛筆使ってて、こんな道具を持って、こういう感じでやるんだなとか。なんかすごくノウハウがある世界だなって。やっぱりもうちょっと勉強したいって受験中にも感じて。両親に浪人させてくださいってお願いして、高校卒業後、名古屋の美術予備校に2年間通ったのちに、東京芸術大学で学ぶことになりました。

山本 その後数々の素晴らしい賞を受賞するなど功績を収められていますよね。大観賞を取られた作品を私も拝見しました。ただ、すごさはわかるのですが、なかなかこれがなにで、こうなっているというのはわからないというか―

川崎 作品のサイズによって表現の仕方が自然と変わってくるっていうのがありますね。院展に出すような大きな作品は、結構自分の中では実験的というか、前回こうしたから次はこうしてみようみたいな、今までやってこなかったような挑戦的な作品を制作することが多いですね。あの作品も吉田南小学校の音楽室をイメージして描いたものです。単純なんですけど、音楽室の幽霊というか、肖像画ってちょっと怖いよねみたいな。あとは、当時、先生の伴奏に合わせて、音楽室で椅子取りゲームとかやってたなとか。そういう強い記憶を凝縮して1枚の絵にできないかなって。

―神楽は身近な生活の一部、「暮らし」そのものだった―

山本 なかなか深いですね。作品が完成した時は、この作品は評価されるぞっていう確信とはあるものなんですか。

川崎 実はあまりないんです。今までは神楽を描くところからからはじまって、神楽の元になった日本神話にも自然に興味が出てきて、神話とかも描いてきましたが、だんだんこう、自分の中に落とし込むのが難しくなっていったんですよ。自分にとって神楽は、身近な生活の一部、「暮らし」そのものだったっていう感覚で、神話となるとやっぱりちょっと物語っていうか、自分との距離感がなかなかつかめなくて。自分の中で神話は答えがないし、神様の形もよくわからないしみたいなところで、表現が迷い始めてきた時でもあったんです。そんなときに石見神楽が何で描けてたのかなってふと考えると、子供の頃から自分が、長期間そこに身を浸してきたからわかるというか。太鼓の音が心に刺さる感じとか火薬のにおいがこんな感じだったとか、自分の体の大きさで神楽を認識してるという言い方はちょっと抽象的ですが、なんかそのつかみ方がいわゆる神話を描くときとは自分の感覚が違うんです。自分が、経験した中で、神話に通ずるような不思議さも表現できるんじゃないかなって、原点回帰じゃないんですけど、そう思えるようになったとき、ちょっと表現を変えていったら大きな賞をいただいたので、とっても勇気になりました。

山本 石見神楽は実体験があったんだけど、そこから神話の世界に入った時には、なかなかその実体験の中ではつかみにくかったので、もう1度原点回帰をして、音楽室の様子を描かれたんですね。

川崎 想像の世界だけだと派手だけど弱いというか、不思議なんですけど。

山本 自分の中の湧き上がるものであると本当の力が宿るということなのでしょうか。

川崎 そうですね。なんか納得感が違う。例えば、神楽の手力男命とか須佐之男命は勝手に自分の理想形があるので、描けてしまう。神話を描くとその違いは如実に感じてきました。

山本 描くことによって自分の得た感動がよりわかってくることもあるんですね。

―遣明船で寧波にわたる48歳の雪舟さんをイメージして―

山本 今回の記念品の雪舟さんの絵はどのような思いで描かれたんですか。

川崎 実際に中学の時に寧波の天童寺に行って、雪舟さんはここで修行してたんだなとか、当時そこまで思っていたかわかりませんが、20年前から今に縁が繋がってるんだという、不思議な力でモチベーションがすごくあったので、今回とても良いお話をいただき感謝しています。母親も雪舟を研究していましたし、大喜庵とかに連れて行ってもらったなとか思い出しました。雪舟さんの肖像画で古いものが残っているんですけど、晩年期の70歳代の雪舟さんとか、小坊主時代の雪舟さんの絵が多く、中年期に中国に渡った頃の雪舟さんの絵がないなと気がついて、晩年の絵を見ながら若返らせていくという挑戦をしました。ワクワクしてるのか、緊張してるのかわからないけど、遣明船に乗って寧波に向かうイメージの雪舟さんを描けたらいいなと思いました。

山本 たしかに、絵を拝見していると、わくわくというか希望に満ちている感じがしますね。晩年の絵をやっぱりモデルにされたんですね。

川崎 晩年の雪舟さんのいわゆる自画像の模写が1400年代ぐらいのものがあって、それをモチーフにしました。小さい頃から雪舟さん、雪舟さんって聞いてて、なんとなく親しみもあるし、素朴で、愚直なところもありそうな優しそうなおじいちゃんというか。

山本 あの絵も優しい顔をしていますよね。物語で知ってる雪舟さんじゃなくて、自分が幼い頃から触れ合ってきた雪舟さんの印象があったんですね。背景は波になっていますね。とてもロマンチックですね。

川崎 そうですね。結構、荒波だったのかなとかと思うんです。帆が張ってあるような遣明船に乗って、命懸けだったのかなと思うんです。わくわくだけじゃない気持ちとかいろいろとあったと思って。48歳の時に勉強しようと思い立って、本場のものを学びたいとか、そういう熱量みたいなの持ってる人だなっていう印象があったので、そういう時代の雪舟さんが描きたいなと。雪舟さんもいろいろなご縁で船に乗れたと思うので。

山本 当時、明に渡るっていうと、それはもうとても大変なことですよね。

川崎 そうですよね。今も自分は日本画を学んでるので、先人たちが中国に渡って日本に技術を持って帰った。師匠筋をたどればそこに行きつくのかなっていう感覚は、胸が熱くなる感じがしますね。

山本 なるほど、そうですよね。師匠の師匠の師匠の・・・ってたどれば雪舟さんに行き着いちゃうっていうのが面白いところですよね。

川崎 雪舟さんの師匠の師匠ぐらいまでしか文献残ってないので、ほぼパイオニアなわけですよね。その流れに自分もいるっていうのが不思議な感覚ですね。

山本 雪舟さんの絵で特に好きな絵ってありますか。

川崎 雪舟の郷記念館に花鳥画があるんですけど、ああいうのを見ていると、どこまでが中国で学んできたもので、どこまではもともとの雪舟さんのタッチなのかなとか、思いを馳せてしまいます。

―人より遅いとか早いとかは関係なく、やりたいと思ったときが一番吸収できる瞬間―

山本 最後に、益田市の子供たちにメッセージをいただけないでしょうか。

川崎 私は自分が絵を始めたのはそんなに早くはないという自覚があって、でも、やろうと思った瞬間がベストタイミングだということは伝えたいなと思います。

山本 なるほど、それはいいですね。

川崎 自分の作家の仲間を見てても、いろいろな仕事をした後に絵を思い立ったりしてる人もいますが、十分それで仕事してるというか。やっぱり遅かったかなって、ふと自分でも思うし、人に言われたりもして不安に思いますが、でも高校生のときとか、子供のときってすべて未経験の状態で判断しなきゃいけない。やっぱりとにかくやってみて、人より遅いとか早いとか関係なく、やりたいと思ったときが、一番吸収できる瞬間だと思うんです。自分の人生のペースというか、自分の直感を信用してくださいって思っています。

山本 信用してくださいっていうのはそれを気づかせてくれた、もたらしてくれたインスピレーションに感謝しているということでしょうか。

川崎 それもありますし、やりたいと思った瞬間、やらせてもらえる環境により感謝できる感じがしました。人より遅いとか考えるよりは、今これに興味があることには理由がある、そう思っています。

山本 自分の可能性を自分で見限ってはいけない。可能性はあるかもしれないと自分を信じて、まずはやってみるってことですよね。

川崎 そうですね。

山本 実体験に基づくだけにすごく説得力のあるお言葉ですね。本日はありがとうございました。ますますのご活躍をお祈りしています。

川崎 頑張ります。ありがとうございました。

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