益田市所蔵周布家文書の画像データ公開について
益田市所蔵周布家文書の画像データの公開について
益田市が所蔵する周布家文書のデジタルデータを公開しますので、どうぞご活用ください。
公開するデジタルデータは4Mb程度のJpegデータですが、40Mb程度のTiffデータもありますので、ご希望の場合は益田市文化財課までお問い合わせください。
デジタルデータの著作権は島根県古代文化センターにありますので、書籍等への掲載を希望される場合は、下記「利用条件と申請書について」をご確認いただき、益田市教育委員会文化財課(所蔵者)と島根県古代文化センター(著作権者)それぞれに申請ください。
このページで公開する益田市所蔵周布家文書の所蔵者、画像の撮影主体等は下記のとおりです。
【所蔵者】益田市
【撮影・提供】島根県古代文化センター
【撮影者】福岡市南区大橋3-7-7
株式会社スタジオパッション
代表取締役_山崎信一
【撮影日】令和2年1月16日・17日
掲載申請及び利用条件について
画像の掲載を申請される場合は、(1)益田市教育委員会の許可と(2)島根県古代文化センターの許可が必要となります。手続きには時間がかかる場合がありますので、余裕をもって(おおむね掲載の1か月以前)、申請ください。
(1)益田市教育委員会への許可申請
「写真・イラスト借用・掲載許可願い」に必要事項を記入、押印の上、具体的な掲載方法がわかる書類(企画書A4一枚程度)と返信用封筒(84円切手添付)を同封し、下記まで提出ください。
〒698-8650島根県益田市常盤町1番1号
益田市教育委員会文化財課
(2)島根県古代文化センターへの掲載申請
「003-1歴史資料公開申請書」に必要事項を記入し(押印省略可)、具体的な掲載方法がわかる書類(企画書A4一枚程度)と(1)で取得した益田市教育委員会の許可書の写、返信用封筒(84円切手添付)を同封して、下記まで提出ください。
〒690-8502島根県松江市殿町1番地
島根県古代文化センター
0852-22-6727
利用条件
1.所蔵者と著作権者それぞれの許可を得ること。
2.掲載の目的が公序良俗に反しないこと。
3.申請書に記した目的以外に掲載する場合は、その都度、申請すること。
4.掲載にあたっては、文書名+「(益田市所蔵周布家文書。島根県古代文化センター写真提供)」を明記すること。
5.掲載により人権や著作権を侵害しないこと。
6.掲載した出版物等を島根県古代文化センター及び益田市教育委員会文化財課に1部ずつ提供すること。
7.写真を大きく改変しないこと(必要な範囲でのトリミングは可)。
8.掲載方法が不適切であると判断された場合は、掲載方法の変更あるいは掲載差し止めを求めることがあります。
申請書のダウンロードは次のリンクをクリックしてください。
【益田市教育委員会に提出する申請書はこちらからダウンロード】写真・イラスト借用・掲載許可願い (Wordファイル: 16.2KB)
【島根県古代文化センターに提出する申請書はこちらからダウンロード】--3-1歴史資料公開申請書 (Wordファイル: 15.7KB)
益田市所蔵周布家文書について
益田市所蔵周布家文書は、現在の浜田市周布町を中心に勢力を誇った領主周布氏の家文書のうち5点です。平成10(1998)年に益田市が古書店から購入し、平成20(2008)年に島根県指定有形文化財(古文書)に指定されました。『中世益田・益田氏関係史料集』(益田市教育委員会、2016年)には、601号~604号及び613号として収録されています。
いずれも天文20(1551)年のもので、3通は陶隆房(のちに晴賢)が、2通はそのいとこの陶隆満が出したものです。周布元兼宛のものが2通、周布氏重臣宛のものが1通、益田藤兼宛のものが2通ですが、いずれも事実上、周布元兼のもとに渡ったと考えられるものです。
同年に起きた、いわゆる「陶晴賢の下剋上」と呼ばれる事件に関するものです。
(翻刻)益田市所蔵周布家文書(『中世益田・益田氏関係史料集』より) (PDFファイル: 108.5KB)
『中世益田・益田氏関係史料集』を販売しています【公費購入可】
1.(天文二十年)九月六日付陶隆房(晴賢)書状

(写真)1.(天文二十年)九月六日付陶隆房(晴賢)書状
陶隆房が周布元兼に対して、大内義隆とは考えがあわないこと、計画を益田藤兼に伝えているので、きっと説明があったであろうこと、すでに長門国深川の大寧寺で義隆を殺害したことなどを伝えています。この文書から、陶晴賢の下剋上に益田藤兼が積極的に協力し、石見の領主らを陶方としてとりまとめる役割を担っていたことがわかります。
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2.(天文二十年)九月十五日付陶隆房書状

(写真)2.(天文二十年)九月十五日付陶隆房(晴賢)書状
陶隆房が周布元兼に、協力の見返りとして「知行」(領地)を保証することを伝えています。また、福屋氏の名前も見えることから、益田藤兼が福屋氏にも協力を呼びかけたことがうかがわれます。
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3.(天文二十年)九月十九日付陶隆房書状

(写真)3.(天文二十年)九月十九日付陶隆房(晴賢)書状
陶隆房が益田藤兼に宛てて、都野津(江津市都野津町)の領主都野氏と周布元兼の紛争について、今は抑えておくよう、依頼したものです。下剋上後の不安定な状況がしずまるまでは、なるべく紛争を回避したいという隆房の考えと、益田氏ならその調整ができると考えられていたことがうかがわれます。
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4.(天文二十年)九月十六日付陶隆満書状

(写真)4.(天文二十年)九月十六日付陶隆満書状
陶隆満が周布氏の一族・重臣の周布兼遠と吉地右衛門尉に宛てて、迩摩郡(大田市西部)の領地については、事態が落ち着いたら「国役人」に説明すると伝えています。なんらかの紛争を抱えている領地についての解決を約束したものですが、これも協力に対する見返りでしょう。また、「国役人」は大内氏の石見支配担当者と考えられます。
【画像のダウンロードはこちらから】(写真)4.(天文二十年)九月十六日付陶隆満書状 (JPEG: 3.8MB)
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5.(天文二十年)九月十月十三日陶隆満書状

(写真)5.(天文二十年)十月十三日付陶隆満書状
陶隆満が益田藤兼に宛てて、周布氏領内に逃れていた相良虎王の首を送ってきたことに陶隆房が感謝していると伝え、残る母や女子は隆房の意をくんで処置するよう求めたものです。相良虎王は、陶隆房の政敵であった相良武任の一族と思われます。
【画像のダウンロードはこちらから】(写真)5.(天文二十年)十月十三日付陶隆満書状 (JPEG: 3.7MB)
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まとめ
このように、益田市所蔵周布家文書は、陶晴賢の下剋上前後の石見国の生々しい情勢と、その中で益田藤兼が石見国の領主のとりまとめ役として重要な役割を果たしていたことを伝えてくれるものです。
【参考文献】
和田秀作「陶氏のクーデターと石見国人周布氏の動向―周布文書の紹介―」(『山口県地方史研究』第70号、1993年)
(令和4年5月。益田市歴史文化研究センター)
この記事に関するお問い合わせ先
歴史文化研究センター
〒698-0033 島根県益田市元町11番26号
電話番号:0856-31-0623
ファックス:0856-31-0641
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更新日:2022年06月10日